東から吹く風に、不穏さを感じたのはなぜだろう。

 畑の畦道の伸びた草を刈り取っていたアリスティアは、ふと空を見上げる。
 雲が多い空は、夜には雨を降らせそうな気配を漂わせている。
 その視線を山側へと移していった彼女は、山へと向かう道の先から、駆けてくる馬の姿を見つけた。

 ややくたびれた馬に乗っているのは、顔見知りの町民だ。
 小さくとも畑で丁寧に麦を作り、いつも四歳になる愛娘の自慢をしては目尻を下げている彼は、今日ばかりは必死の形相で、だらだらと歩きたがる馬を急かしていた。

「おい、ほら早く! お前の飼い葉もなくなるかもしんねぇべ! 急がんかい!」
 仕方なく駆け足で道を進む馬を見て、アリスティアよりも道に近い場所で草刈りをしていたおばさん達が笑う。

「おやまぁ、そんな急いでどーしたんだい?」
「嫁さんが産気づいた時みたいな顔して! でもあんたんとこの嫁さん、まだ妊娠してなかったはずだけんど?」
 のんびりとからかうおばさんたちに、馬に乗った男が叫ぶ。

「うちだけの問題じゃねぇだよ! よその国の軍隊が、山向こうから来ようとしてんだ! みんな逃げろ!」
 ぴたりとおばさんたちが笑いを止め。一瞬後には草刈り鎌を持ったまま畑から走り出した。

 それもそのはず。
 田舎は田舎でも、辺境地にほど近い場所のため、王都のことは半年前の噂しか入らなくとも、国境近くの噂話は二週間ほどでやってくる場所だ。
 そしてまさに二週間前。
 辺境の土地が隣国ノイエフェルトに侵略されたのだ。

 この貧しい土地にも来るかもしれない、いや街道から外れてるので来ないだろうと、顔を合わせれば話し合っていた町人達だ。
 とうとう来た! と大慌てで家へ戻っていく。

「か、帰らなくちゃ!」
 アリスティアも草刈り鎌を持ったまま、急いで館へ向かった。

 畑を駆け抜けると、町を囲うアリスティアの腰の高さほどの木の柵が見えた。木の柵であつらえた門の傍には、出入りを監視する役目の兵士が一人だけいた。兵士もまた、先ほどの馬による知らせを聞いて麦畑の世話の途中で戻ったのか、麦わら帽子を被ったまま、家から持ち出した革鎧を着ている。

「お嬢様、お急ぎください! ご領主様のところにはもう馬が着いているはずです!」
「ありがとう!」
 アリスティアはさらに町の中を駆ける。

 知らせを受けたばかりの町人達は、とにかく持てる限りの荷物を家から持ち出す女性や子供と、武器が無いと言いながらクワを手に右往左往する男性たちで騒然としている。
 それを見て、アリスティアは女性達に声をかけていった。

「女性と子供は館へ! 地下へ隠れて!」
 なにせ敵の軍隊だ。侵略しようとしているのだから、見つかれば何をされるかわからない。畑しかない土地だからと通り過ぎてくれたらいいが、街道から外れたこのオースティン子爵領へ来るのだから、何らかの目的があるのだろう。

 アリスティアの声が聞こえた人達が、館を目指し始める。彼女達を先導するように、アリスティアはようやく館に到着した。

「お父様!」
 館の前には、着慣れた黒の上着の上から、こげ茶色の革鎧を身にまとった父、オースティン子爵がいた。

 しかし中年太りで蓄えたお腹周りに合わなかったようで、脇で固定するための紐が結べていない。しかも手に持っているのはクワだった。
 それでもアリスティアと同じ亜麻色の髪をなびかせ、きりりとした表情で立っている。
 父の前にいるのは十数名の兵士だ。こちらは鎧をきちんと着こんで剣を持っているものの、人数が心もとない。
 でもこれが、貧窮するオースティン子爵家の全兵力だった。

「とうとうこの時が来てしまった……」
 アリスティアの父は遠くを見るような目をしてつぶやくと、アリスティアの方を振り向いた。

「可愛いわが娘よ、その帽子を取って顔をよく見せておくれ」
「はい、お父様」
 草刈り作業のため、麦わら帽子とその上から手拭いを巻いて固定していたのだが、それを脱いだ。
 さらりと背に落ちるのは、三つ編みがほどけかけた亜麻色の長い髪だ。
「今日もよく働いていたみたいだね、可愛いアリスティア」
「はいお父様」
「お前のお父様は……こんな貧しくて、貴族令嬢らしい生活もさせてやれないほどふがいないというのに、お前が一生懸命がんばってくれて、本当に感謝しているよ」
 そう言ってアリスティアに近づき、頭を二度、三度と撫でると、感極まったようにクワを放り投げて抱きしめてきた。

「ああ可愛いわが娘! もしかするとお父様は帰って来られないかもしれないというか、戦闘になったらまず無理だ!」
 最初から負けを覚悟している父に、だがアリスティアも「大丈夫」だとは言ってやれない。

 放蕩をつくした祖父のせいで、オースティン子爵家は貧乏になり、税を免除してもらう代わりにと領地を王に返上して縮小し。猫の額ほどの土地を持つだけの、もう貴族じゃなくて地主とでも名乗った方がいいのではないかという有様だ。
 それをなんとか運営しつつ、自分も畑仕事に精を出すアリスティアの父は、正直剣など使ったこともなく、クワの方がまだ扱いやすいからと、剣の代わりに持っていたのだろう。
 クワで襲い掛かられるというのも怖いとは思うが、辺境地で一戦交えてきた敵軍の兵士に敵うとは思えない。

「お父様……もうみんなと一緒に逃げましょう。そして身分を捨てて、どこか別な町でひっそりと商売をして生きましょう」
 ろくに兵力もないのに、戦って勝てるわけがない。だから父に逃げようと言ったのだが、首を横に振られてしまう。

「もう敵はすぐそこまで来ているのだ……。今から逃げては、すぐに追いつかれてしまう。誰かが足止めしなければ、隠れる時間すら稼げないだろう」
 だから娘よ、と父はアリスティアに涙で潤んだ目をむける。

「急いで皆と一緒に地下に隠れていなさい。何年か前に、お父様と館を探検した時に、地下から牛小屋の裏まで続く道を見つけて、蜘蛛の巣を払ったのを覚えているかい? あそこを使って、真夜中になってから上手く逃げるんだよ?」
 では行くからね、と父はアリスティアを離し、本当にわずかな兵と一緒に館から出発する。
 簡素な木の門の前には、館へ入ってくる女性や子供たちの他に、父のようにクワと鋤を手にした農民たちがいた。
 彼らは父に声をかけると、一緒に山へ向かう道を歩きだす。
 農民や町の人達も皆、家族を逃がすために戦うことを決めたのだ。

「お父様……」
 もう二度と会えないかもしれない。
 渋皮色のスカートをぎゅっと握りしめたアリスティアは、すんと鼻をすすると館へ向かって走り出す。

「さぁみんな、ここに入って! 階段を降りた場所に地下室があるわ。まずはそこで息をひそめて敵をやり過ごしましょう!」
 館は数代前の祖先が建てた石造りの立派なものだ。おかげで避難するための地下室や抜け道がある。
 入り口は一階にあるとすぐに見つかってしまうと祖先が考えたのだろう。二階にある部屋の暖炉の脇から入れるようになっている。
 館へやってきた人達を先導しながらそこまでやってきたアリスティアは、石壁を動かして入り口を開けると、順に入るように急かした。

 けれどその途中で、悲鳴が聞こえた。
「何!?」

 地下室へ向かう人々もざわめき、自然と足が止まってしまう。
 アリスティアは何が起きたのかわからないまま、とにかく先へ進むよう促した。
 そして館に通いで掃除の手伝いに来てくれていた顔なじみの女性を見つけると、何かあったらとにかく部屋の中に人を隠して扉を閉じてしまうように頼み、館の階段を駆け下りていった。

 外へ出る。
 まだ館へ到着していなかった女性が数人いた。彼らは必死の形相で走り、その背後からは見慣れない鉄の鎧を着た人の群が見えた。
 十数人単位ではない。百人規模の人間が、館を囲もうとしている。その背後ではためくのは、緑の星の意匠の旗――ノイエフェルトのものだった。

 アリスティアは呆然としてしまった。
 どうしたらいいのかわからない。
 敵は山道の向こうにいるのではなかったのか。
 どうしてこんなすぐに館を包囲できたのか。
 まさか父はもう殺されてしまったのだろうか……。

「うっ……」
 目に涙が浮かんだ。農民達を合わせたって、父の連れて行ったわずかな人数では、こんな大軍に勝てはしないだろう。
 もう父はいないのだ。そう思うと、たった一人で敵の前に立たされたように、全身が震えてくる。
 そのまま座り込んでしまいそうになったアリスティアだったが、

「お嬢様、お早く!」
 駆け込んできた女性が、アリスティアを館の中へ引き込んで扉を閉めた。
 彼らがかんぬきをかけている間に、今度は階段を駆け下りてきた中年のご婦人方がやってくる。

「敵が来たのが見えたので、来ましたよ! お嬢様早くお隠れになって!」
 そう言って彼女達は、アリスティアを引き摺るようにして二階へ移動させようとした。

 そこでアリスティアははっとした。
 館の外にいたノイエフェルトの軍は、館の中に人が入っていくのを見たのだ。もしこのまま皆で隠れたりしたら、どこかに隠し部屋があるとすぐに気付かれてしまって、早々に地下室が暴かれてしまう。
 夜中を待たずに皆が捕まり、殺されてしまったら……。
 アリスティアは手に持ったままだった草刈り鎌を、両手でぎゅっとにぎりしめる。

「私は、隠れません。皆で隠れていてください」
「お嬢様!? 何を仰るのです!」
 女性達が驚いてアリスティアを振り向く。

「だって私は姿を見られています。館の中に誰もいなければ、どこかに隠し部屋があるとわかってしまう。……全員が捕まるより、私が敵を引きつけておけば、みんなが逃げられる可能性が高くなります」
「でもそれではお嬢様が無事ではすみません!」
「ご領主様のご家族が生きていることの方が大事ですよ!」
「お嬢様がいなくなったら、この土地でまた暮らすことができても、重税を課す貴族が来てしまったら困りますよ! ね、だからお嬢様は隠れてくださいな」
 女性達は口々にアリスティアを説得しようとしてくれた。
 その気持ちがうれしい。
 だからアリスティアは、微笑んで言うことができた。

「ありがとう。でもお父様がいなくなってしまったのだとしたら、私には金策の伝手もありません。そうなれば後を継いだところで、王様に領地を返上することしかできないでしょう」
 貧乏貴族は懐事情がいつでも厳しいのだ。
 父の采配でぎりぎりで赤字を出さずに済んでいるだけで、利益を出すことなど夢のまた夢。一時しのぎに商人からお金を借りることもあるが、まだ小娘のアリスティアが同じようなことをしても足元をみられるのが落ちだろう。

「だから私が領主の娘としてできる最後の役目を果たさせて下さい。それに、お父様が……もし先に天へ昇られているのなら、私も同じ場所へ行きたいのです」
 そう言うと、女性達は涙ぐみ、一人は嗚咽をもらしはじめる。

「こんなにも思い合うご家族は他にいないでしょうに……」
「うちの領地の自慢は、仲が良い領主様とお嬢様の姿でございましたよ」
 一通り惜しんで、ようやく彼女達はアリスティアの決意を認めてくれた。

「そうと決まれば、皆が逃げのびる時間をかせぐためにも、なるべく長く敵をひきつけて、ついでに戦いましょう!」
「え?」
 アリスティアは目を丸くする。

「あなた達は隠し部屋に逃げて下さっていいのに……」
「だってお嬢様。私らは敵にしっかりと館の中に駆けこんだのを見られているんですよ。居ないとおかしいじゃありませんか。なら、お嬢様に近づくのを最大限まで阻むお役目をさせていただきますよ」

「みんな……」
 ありがとう、そうアリスティアが言おうとした時、扉が大きな音をたててたわんだ。