既に日が高くなった頃のこと。
 昼食を求めて串焼きを出す店や料理屋が並ぶ王都の一角を、イグレシアスは歩いていた。

 そんな彼の姿を、道行く人々は振り返る。
 イグレシアスは王宮仕えの近衛騎士の織り目の美しい黒い上着姿に葡萄酒色のマントを羽織っていた。王都の巡回を請け負う騎士ならばまだしも、王に信頼されその側に仕えることを許された近衛騎士の姿など、めったに見かけるものではない。

 通りすがった人々は、しかし彼の進行方向について不思議に思った。
 王宮がある方向ではなく、少し離れた場所にある慎ましい暮らしを送っている人々の多い街区へ向かっているのだ。その方向には、名の知れた店があるわけでもない。
 そうとなれば、考えられる可能性は一つだったようだ。

「騎士様はきっと貧しい家の娘と恋仲なんだよ」
「きっと女の方が会いに来てくれとせがんだに違いないよ」

 イグレシアスの姿を見た街の人々は、ひそひそと推測を話し始める。
 その内容を耳にした本人は、奥歯をかみしめながら思った。

(そうだったらどんなにいいか……)

 彼らの推測通りなら、今イグレシアスはこんなにも暗澹たる気持ちで道を歩いてはいなかっただろう。
 こそこそと馬にも乗らず徒歩で向う必要もなく、うわさ話をする人の視線を避けるように路地を何度も曲がり、そして建物の陰からそっと目的の家を眺めるようなことをすることもなかったはずだ。

 そんなイグレシアスの視線の先には、二階建ての小さな家があった。
 両側を端が欠けたレンガ積みの家に挟まれた家は、白い漆喰のつつましいたたずまいだ。
 一階は小間物屋の看板がかかっており、小さな扉を開けて腰がまがり始めた老店主が外に出てくる。

 老店主に続いて表れたのは、小柄な渋皮色のマントを羽織った人物だ。
 深緑のチュニックにズボン、そして弓と矢筒を背負っているその姿は、少年の狩人にしか見えない。
 けれどフードを被っていないため、紅茶色の長い髪が背を覆っているのがわかる。意志の強そうな瞳に小さな赤い唇のその人物は、可愛らしい顔立ちの少女だ。

 彼女は元気よく老店主に声を掛け、どこかへと歩み去っていく。
 老店主に話した内容がうっすらと聞こえたので、どうやら彼女はこれから猪狩りに行くらしいことがイグレシアスにもわかった。

 イグレシアスは、彼女の姿が道の向こうで角を曲がるまで、じっとその場で見つめ続ける。
 それから深いため息をついた。

 元気そうでよかった、とまず彼は考えた。
 二階を間借りしている彼女と老店主との関係も良好なようだ。
 老店主は孫を見るように目をほそめて、彼女と話していた。
 それから考えたのは、自分も老店主のように声を掛けたかったということだ。同時に悔恨の気持ちが湧き上がる。

「もう半年だ。そろそろ……いいだろうか」

 独り言がつい口から漏れた。
 彼女と顔を合わせないようにしてから半年。
 その原因は自分自身ではないものの、イグレシアスの家と彼女の間がぎくしゃくする事件が起きて以来、話すらしていなかったのだ。
 半年前に彼女が引っ越した時にも、彼女は亡き父親と交流があった隣家のイグレシアス一家に、声をかけることもしなかった。
 当然、幼なじみのイグレシアスにすら、手紙一つくれなかったのだ。

 彼女は怒っているのだろうと結論づけたイグレシアスは、だから直接会うのをためらった。一方で、一人で生活している彼女のことが心配で、ついつい暇をみつけては様子を見にきてしまうのだ。
 本当は、狩りに行った先の様子も心配だった。けれど、そこまでついて行くわけにはいかない。うっかり見つかってしまって、彼女の嫌がる顔を見てしまったら、しばらく陰鬱な気持ちで過ごさなくてはならなくなるだろう。

「狩猟仲間を信用するしかないか……」

 イグレシアスは、彼女が属する狩猟組合の面々を思い浮かべる。そもそも、女の身で彼女がそこに所属できたのは、イグレシアスが手を回したからだ。なのでそれなりに信用している相手だが、不測の事態というのはどんなに備えていても起こりうる。

 後ろ髪を引かれながらその場を立ち去ったイグレシアスは、重い足取りで王宮へ戻って行った。


 内心で彼女が心配なあまり無表情になってしまっていたイグレシアスに、行き会う人々は好意的な目を向けてくれる。
 それは若年の騎士とはいえ、国王が信用していること、それを認めさせるために築いた数々の槍試合や剣の試合の戦績のおかげだろう。そして一部の者は、自分の容姿が好ましく映っているらしいからこそ、好意を向けてくれていることもわかってはいる。

 しかしそれもすべて、本当に喜んで欲しい相手や、好ましく思って欲しい相手に効果がなければ意味はないのだ。
 彼女が振り返るのなら、髪をぼさぼさにして、すり切れたぼろぼろの衣服を着たっていい。それで他の人間が嫌悪にゆがんだ顔をしようとかまいやしない、と思うほどに。

 そこでふと、イグレシアスは危険な発想に囚われた。

(むしろそれで、声をかけるきっかけを掴めるか?)

 常にない姿をして彼女の視界に映れば、情の厚い彼女ならば声をかけずにはいられないはずだ。
 たとえイグレシアス一家に近づきたくないと思っていても、心配のあまりに自ら駆け寄ってくれるだろう。

「もう半年だ。きっと心の傷も少しは薄れているはずだし、上手くいく可能性は高い。やってみる価値はある……」
「何が半年なのだ?」

 声をかけられ、イグレシアスは振り返った。
 考えに没頭しすぎて気付かなかったのだろう。いつの間にか、目の前に二人の青年が立っていた。 
 一人は金茶の短い髪をしていて、気に入っているのか青系で統一した衣服を着ている。彼はイグレシアスよりもやや幼さを感じる顔立ちをしている。
 それもそのはず、金茶の髪の青年はイグレシアスより一つ年下だ。

「どうした? このようなところで立ち止まって。あと陛下を探しているのであれば、天気がいいから外を眺めるのだと仰って、東の尖塔へ向かわれたぞ」

 親切に教えてくれる金茶の髪の青年の横から、もう一人の青年が首をつっこんでくる。

「急ぎの用事も護衛の必要もなさそうだからさー。僕とチェスの続きしないかい?」

 にっこりと微笑むイグレシアスより年上の青年の姿は、繊細に彫刻された神像のようだ。さすが幼い時には、神からの恵みを一身に受けた容姿だと言われただけあるなとイグレシアスは思う。
 けれどやや間延びした口調が、容姿から醸し出される神秘さを削いでいる。
 二人の青年の前で、イグレシアスはひざまずいた。

「今日もご機嫌が麗しいご様子でなによりです、王子殿下方」

 彼らはこのレナリス王国の王子だ。
 挨拶を述べるイグレシアスに、兄王子のアルフレードがへらっと笑って言う。

「そんな風に膝なんてつかなくていいよー、水くさいなーイグ。僕と君の仲だろう?」
「どういう仲ですか」

 仕えている相手に膝もつかないなど、イグレシアスには理解できない。それが許されるのは、親族か他国の重要な相手だろうと思うのだ。

「兄上、そう無理を言い過ぎては……イグレシアスの身にもなってやってください」

 弟王子のテオバルトがイグレシアスに助勢してくれるが、アルフレードは引いてくれなかった。

「じゃあ今度、親しいチェス仲間はひざをつかなくていいって決まりをつくるよ! そういえばこの間の決着がついてなかったように思うんだけど、続きやらない?」
「ついたではありませんか、殿下」

 イグレシアスが負け、アルフレードが勝ったはずだ。

「負け逃げは反則だと思うんだけどねー?」

 傷ついちゃうなーと言うアルフレード王子に、イグレシアスはため息をついて返事をする。

「わかりました。後日、お伺いいたしますので」