弓を引き絞る。

 鉄の矢尻の先にいるのは、一匹の黒毛の狼だ。
 ふさりと尻尾をゆらし、狼はすぐ鼻先に転がる鳥と、弓を持つリザとを黒い瞳で見比べている。

「さぁ、良い子だから私の獲物を返してちょうだい?」

 声をかけたリザの髪を、春にしては冷たい風がそよがせた。
 ほつれていた横髪が視界に映る。秋の枯葉にも似た紅茶色だ。
 結い上げた髪が流れ落ちるマントの色は渋皮色。その下には白いシャツと着古した深緑のチュニック、そしてズボンという出で立ちだ。春の新芽が顔を出し始めた葦原の中、リザの姿は少年の狩人にしか見えないだろう。
 ただ、リザだって男物ばかり着たいわけではないのだ。

(さぁ鴨から早く離れなさいよ。肉はごちそうにできるし、羽根を売ったら野菜も買えるんだもの)

 鴨を売り払う想像をしているうちに、思わず弓を握る手に力が入る。
 が、この狼は射るわけにはいかない。
 葦原の向うに佇む山は、小さいながらも「神山」と言い伝えられている場所だ。

 この世界には昔『無魔』とよばれる悪魔によって世界が滅びかけた際、天から神が降り立ち人を守ったという伝説がある。その神がこの山に住んでいるといわれているのだ。
 そのため、この山に棲む生き物は狩ってはならないことになっている。植物採取さえも禁じられ、警備兵でさえも、聖別された衣をまとっていなければ入ることを禁止されているらしい。
 まだリザのいる場所は麓の方で、禁猟地ではない。しかし余所から飛んできた所を見かけた鴨はまだしも、山を住処にしている可能性が強い狼を射るのは、脅しでもためらわれた。

 リザが本気ではないと察してか、狼は姿勢を低くして、リザの隙を狙っている。
 時間が経つにつれて、リザは腕が疲れてきていた。

(でもなめられちゃだめ!)

 動物は敏感にこちらの不安や怯えを悟る。そしてこの睨み合いに勝てば、美味し鴨肉を手に入れ、生活の足しが手に入るのだ。

 リザは歯を食いしばって、弓蔓をさらに強く引いてみせる。
 狼がぴくりと、毛で覆われた耳を動かした。

 と、その時。
 低い地響きと共に地面が揺れて、リザが姿勢をくずす。
 そのとたん、よろけたはずの狼がさっと鴨を咥え、山へ向かって逃走した。

「あー! 鴨どろぼう!」

 迷ったのは一瞬だった。この葦原から出る前に捕まえればいい。
 決断したリザは狼を追いかける。しかし走っている途中で、降り始めた雪に目を丸くして立ち止まった。

「え……ゆき?」

 ふわりと落ちてくる白い綿に手をさしのべれば、指先にふれると冷たさの余韻をのこして、水になって消えてしまう。
 間違いなく雪だ。

 けれどリザは信じられなかった。
 今はもう春だ。それも初春ではない。
 雪は溶けてなくなってしまったし、緑が木々にも大地にも溢れて、野の花は咲き始めているのだ。

「どうして……」

 思わず灰色の曇り空を見上げる。しかしリザに、空の神のきまぐれの理由などわかるはずもない。
 気づけば、狼の姿も見えなくなっていた。
 リザはふうとため息をつく。風もなんだか寒い。もう日も暮れようとしている時刻だ。

「帰ろ」

 自分に言い聞かせるようにつぶやき、リザは弓を背負い直す。
 そうして新緑の草の芽と白い雪が彩る草原の上を、歩き出した。

「まぁ獲物は全く無いわけじゃないし。鳥は……惜しかったけど」

 今日は昼から猪狩りに参加していたのだ。狩った猪は、馬車で既に王都に到着しているはずで、今日のリザはその分け前があたる。
 だからもう鳥のことは諦めよう。心の中で自分に言い聞かせながら、半刻ほども歩いた頃だろうか。

 遠くから、前年の枯れ草を蹴立てるようにして走ってくる馬が数頭見えた。乗っているのは、黒地のマントを羽織った王領の警備兵だ。
 何か変事があったのだろうか。それとも変な振動と雪降があったから、神山の周囲を見回っているのだろうか。
 しかし自分は関係ない。だから足早に立ち去ろうとしたリザは、自分の進行方向をふさぐように現れた騎馬に驚いて足を止めた。

「お前、神山に侵入しただろう!」

 開口一番、警備兵が言いはなった言葉に、リザは目を丸くする。

「えっ!?」
「しかもこんな場所に弓を持って来ているなど、神山で狩りまでしたのか!? 不届き者め!」

 尋ねながらも、リザを囲んだ警備兵四人は剣を鞘から抜きはなっている。
 ひっとリザは喉の奥で息を飲んだ。
 よくわからないが疑われているらしい。けれどここで反論しなければ、そのままなしくずしに罪人にされてしまいかねない。だからリザは声を張り上げた。

「狩ってないわ! 何にも持ってないでしょう!」

 ほら! と手ぶらであることを示すように両手を上げてみせる。
 すると年嵩の警備兵が顔をしかめた。

「背格好からしてまだ子どもか? 大人のように狩りのまねごとをしたものの上手くできずに、獲物がほしくて神山に入ったに違いない」

 年嵩の警備兵の言葉に、他の三人の警備兵もうなずいて下馬した。そして剣をリザに突き出したまま近づいてくる。
 うそ! とリザは焦った。

「ちょっ、やってないって言ってるじゃない! だいたい何で私が狩りが上手くないだなんて決めつけるのよ! 私は猪狩りにも呼ばれる腕前なのよ。疑うなら王都の猟師組合のセブロさんに確認とってよ!」
「黙れ罪人!」

 リザは言葉を飲み込む。剣が、自分ののど元に迫っていたのだ。 
 その切っ先を向けている警備兵が、おごそかに宣言する。

「お前を神山に許可なく侵入した罪で連行、拘留する。神の領域を侵した罪は重い。覚悟することだな」

(このっ……、少しぐらい人の話を聞きなさいよ!)

 心の中で悪態をついたものの、それを言った所で警備兵達を激昂させるだけなのはわかりきっていた。これ以上抵抗したなら、別な罪でも付け加えられかねない。
 リザはぐっと文句を押し殺し、両手を縄で縛られる事にも抵抗しなかった。
 ただ、なぜ神山の中にいない自分が神山を侵した罪に問われるのか。それだけは知りたいと思って尋ねる。

「どうして、私が神山に入ったなんて疑うんです?」

 するとリザの手を縛っていた警備兵が、鼻で笑った。

「お前、さっきの雪を見なかったのか? 季節を問わずに雪が降り、神山が鳴動したとき……それは神が怒りを表しているのだ。このままにしておけば、国中が長雨や地震など、天変地異に見舞われるだろう」

 さきほどの地響きと、雪が降ったせいだとリザにもわかった。だから神を怒らせたのだろう罪人を探しに来たのだ。そして運悪く神山の側に、弓を持ったリザがいて……神山に入って狩りをしたという疑いで捕まえたというわけだ。
 知りたいことを教えてもらったものの、リザの状況が改善するわけではない。

(だって神山になんて入ってないのに)

 心の中で悔しく思いながら、リザは荷物みたいに横倒しで馬にのせられた。
 女子としてかなり屈辱な対応だ。優しくしてくれとは言わない。ただ、普通に乗せてほしかった。

「よし、罪人を詰め所に連れて行くぞ」

 年嵩の警備兵の号令で、警備兵達はリザを連れて詰め所へと移動を始めた。
 馬に揺られて上下しながら頭を起こしたリザの視界の中に、小さな台形の山が映る。
 神山に入った者は、天変地異を治めるために生け贄にされる。このままではリザは、あの台形の山に放り込まれ……神に殺されてしまうのだ。

(怒らせた原因じゃなくても、山の中にずっといたら……きっとほんとに神様が怒って、殺されちゃうかもしれない……よね)

 どうにかできないか。
 けれど何も思いつけないまま、リザはなりゆきに任せるしかなかったのだった。